同じものを見ているつもりが

先日、「科捜研の女」の再放送を見ていたら世の中にはとんでもない能力を持っている人がいるという。

何でも他の人とは違った色彩で見ることができるという。
普通の空にオーロラを見ることができるという。そんな人の見る景色を凡人である私は想像することはできない。

同じ景色を見ているつもりが、違う景色を見ていた。そんな経験は普通の人同士でも起こる。

夫婦をそれなりにやったきていると、こういうケースが多くなって来ることに気がつく。

北山修さんの歌ではないが、

同じ花を見て
「美しい」、
と言った心と心が通わなくなる。

夫婦関係の危機と言えば言えなくもない。

多くの場合は、夫婦の危機まではいかない。喧嘩の元になる程度である。

喧嘩が重なって、やがて慣れや諦めへと昇華される。

「最近喧嘩が減って平和だよ。お互いに分かりあえて来たんだ」
などと安心してはいけない。

互いに諦めあっているだけなのかもしれない。

お互いが喧嘩をしているうちが華である。

「諦めなければ夢はかなう」
などと大袈裟なことを言うつもりはないが、

諦めずに互いに分かり合おうという状態、喧嘩が続く状態にこそ未来があると信じたい。

何事も見方を変えれば、事情は変わるのである。この程度であれば、凡人の私にもできない話ではない。

ボブ・ディランとノーベル賞

ボブ・ディランノーベル文学賞を貰ったそうである。

賛否両論あるようだが、意外であることに異を唱える人は少なかろう。

フォークあるいはロックをやっていると、親なんかからは、
「下らないことをやってないで、ノーベル賞を貰うような仕事を目指せ」
などと言われたかもしれない。

これからは胸を張って、
「ロックでノーベル賞をとったる」、
と言うことができる。

さて、ボブ・ディランといえば、彼の、ギターを弾きながらハーモニカを演奏するスタイルが流行ったことがある。

ハーモニカは、ハーモニカを動かして演奏するものだ、
と思っていた。
ハーモニカが固定されていて、口を動かして演奏するのが、妙に斬新だった。

このスタイルを発明したのが、ボブ・ディランてあれば、これでノーベル賞を貰ってもおかしくはない。

ただ、このスタイル物理的な壁に阻まれている。限界があるのである。

歌っている時に、ハーモニカが演奏できない。

当たり前と言えば当たり前であるのだが、歌いながらハーモニカが演奏できれば、誰も文句が言えないノーベル賞が貰えそうである。

ウルトラQ 育てよカメをみる

ウルトラQの中で妙な意味で記憶に残る作品です。
これを子供の頃にみたときに、子供心にもいかにも低予算で作られたと思いました。

まず、怪獣が出てこない。同じ怪獣が出てこないものに「開けてくれ」があります。こちらは、なんだか心に響くものがありました。

そもそも荒唐無稽な話が、コミカルに展開していきます。見ているこちらは、怪獣がいつでるか。いつ怖い思いをするか、と期待して見ているのですから、笑いが出て来ません。

完全に肩透かしを食らった思いだけが残った記憶があります。
今回、改めて見てみると、面白いことに気がつきました。

まず、銀行強盗が登場するのですが、彼らが乗っている車が当時としてもクラシックカー。こんな目立つ車で銀行強盗する奴はいないです。

次に、銀行強盗の服がいかにもギャングそうろうです。

昼間の日本でこんな格好をしていてはNシステムがなくても追跡ができてしまいます。

一方で、終わりの方のストーリーはちょっとシュールでシニカル。大人が見ると面白いできかもしれません。

ニヤリと笑ってしまいます。

また、こんな建物が映って当時の東京を感じることができます。
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北風と太陽

ナンシー関さんのエッセイを読んで笑ってしまった。

なるほど才能のある人は、着目するところが違う。

もっとも、気づいていなかったのは私だけで多くの人はすでにご承知のことかもしれない。

さて、前置きはここまでにして本題に入る。

『北風と太陽』の寓話である。

これは、北風と太陽のひまつぶしに、人間が翻弄される話とナンシー関さんはいうのである。

確かに、北風も太陽も人間のためを思ってコートを脱がすのではない。

あくまでも、彼らの自己満足のための競争である。

この競争のために、人間は暑い思いをしたり、身の危険を感じたりする。

案外、自然界の出来事はこうした事情で行われているのかもしれない。

今年は春からたいへん暑い日があった。ということは、太陽が何かと力比べなんかをしているのであろう。

できれば、勝負がついて穏やかな夏の到来といきたいものである。

ボーナス

ボーナスの季節が始まる。
父がボーナスで軽自動車を買ったことがあった。

我が家にとっては初めての自家用車であった。

三菱自動車のミニカ。 2ドア。今の軽自動車と比較すると、何と小さなクルマか、と思ってしまう。

この小さなクルマで名古屋から紀伊半島の白浜まで行ったことがあった。

一家3人が乗って運転手は父だけであった。まったく無謀に近い計画であった。

案の定、途中でトラブルになった。急にスピードが出なくなった。車で旅行することに慣れていなかったためか、このトラブルに私は楽観的だったように思う。

ひょっとすると、心配し過ぎて、記憶が置き換えられているだけでかもしれない。

新宮というところで修理屋に持ち込んだ。すると、ピストンに穴があいていると言う。

事態の切実さがヒシヒシとわかり始めた。

その後、どのように直したかは分からないが、何とかその日の宿泊予定地である那智勝浦にクルマで着いた。

それにしても、ピストンに穴があいた車で何キロかは走ったわけで、今でも信じられない。

あの当時の軽自動車が公道を走っているのを見かけることはさすがにないが、博物館のようなところで見かけると、当時を思い出して切なくなる。

エアコンのない小さなクルマに一家の楽しみ、希望なんぞを載せて頑張ったクルマに愛しささえ感じてしまう。

外食での会話

子どもの頃あまり外食というものをした記憶がない。

父は食事というものに頓着する人ではなかった。

口に入れば何でもいい、というのではないが、これが食べたいとあまり言わない人だった。

それとは関係ないかもしれないが、外で食べるよりも自分の家で食べることを好んだ。

酒をたしなんだので、すっと横になりたかったのかもしれない。


ある年、何を思ったのか、私の誕生日に外食することとなった。
近くの和食の店に鰻を食べに行った。

もともと、自宅で食べるときも喋りまくって食べる家族ではなかった。
おまけに、めったにしなかった外食である。

何を話して良いかわからない。近くに人がいなければ良いが、あいにくいる。その上、あちらも会話が弾んでいるというのではなかった。

そんなことから、黙々と食べていた。

「おい、少しは話をしたらどうだ」

突然、父が言った。

ならば、自分から話題を出せばいいのだが、それはしない。
父にも適当な話が見つからなかったのであろう。

と言って、こちらに振られても困る。

心の中で思いつつ、さりとて、話題があるわけではないので、黙々と食べるのが続いて食事が終わった。

食事中の妙な緊張感と、あまり楽しくなかった外食の記憶だけが残った。

それからも外食をすることは、少ないながらもあった。
少しは会話をしなければと思いつつ、しかし、黙々と食べるのは変わらなかった。

週刊現代によれば、大山のぶ代さんが認知症を患っているらしい。大山さんといえば、料理が得意な人だった。また、とてもシャキシャキした感じの人だったと思う。

素人考えからすると、認知症から最も遠いところにいる人に思える。でも認知症になる。この病気の怖いところである。記事によれば、大山さんはガンを患ったことがあるらしい。これは直接関係はないが、ガンの後心筋梗塞になったとのことである。この時に使った薬の影響で、脳に異変が発生したとのことである。

歳を取ると、ちょっとした環境の変化や病気で認知症になったりするらしい。それは、病気や環境の変化の大小とは関係なさそうにも思う。

私の母は老人ホームから特養に施設を変わったことで認知症が出てきた。父が亡くなり一人暮らしになったときも、自分の家で暮らすことが難しくなり老人ホームに入居したときも認知症の症状が出なかった人だったのに。

環境の変化によるものの積み重ねが原因だったのかもしれないし、年令だったかもしれない。
いずれにせよ、私を誰かわからなくなったり、顔付きが険しくなったりするのは哀しい話である。

自分がどうすれば認知症を患わなくてすむのか。いろいろ思い付くことはしているが、決定打がないのが心もとない。